東京高等裁判所 平成9年(行ケ)231号 判決 1999年3月16日
大阪市浪速区敷津東1丁目2番47号
原告
株式会社クボタ
代表者代表取締役
三井康平
訴訟代理人弁理士
安田敏雄
同
吉田昌司
同
喜多秀樹
東京都千代田区霞が関3丁目4番3号
被告
特許庁長官
伊佐山建志
指定代理人
築山敏昭
同
黒瀬雅一
同
田中弘満
同
廣田米男
主文
特許庁が平成5年審判第8276号事件について平成9年7月30日にした審決を取り消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
事実
第1 当事者の求めた裁判
1 請求の趣旨
主文と同旨
2 請求の趣旨に対する答弁
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
第2 請求の原因
1 特許庁における手続の経緯
原告は、昭和61年8月7日、発明の名称を「四輪駆動車輌の前輪駆動制御装置」(後に「四輪駆動車輌形農用トラクタの前輪駆動制御装置」と補正)とする発明に係る昭和58年3月24日出願の特許出願(昭和58年特許願第49972号)の一部について新たな特許出願(昭和61年特許願第185794号)をしたが、平成5年4月6日に拒絶査定を受けたので、同年4月26日に拒絶査定不服の審判を請求し、平成5年審判第8276号事件として審理された結果、平成9年7月30日に「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決を受け、同年8月21日にその謄本の送達を受けた。
2 特許請求の範囲
本願明細書の特許請求の範囲の請求項1の記載は、次のとおりである(以下、請求項1に係る発明を「本願第1発明」という。)。
「ステアリングハンドル(8)により操向可能であるとともに前輪走行伝動系により駆動可能な左右の前輪(5)(5)と、高低複数段に走行変速を変速操作可能な走行変速装置(16)と後輪デフ装置(17)とを備えている後輪走行伝動系により駆動される左右の後輪(6)(6)と、を有する四輪駆動形農用トラクタにおいて、
前記前輪走行伝動系は前記走行変速装置(16)と前記後輪デフ装置(17)との間の後輪走行伝動系より分岐して備えられ、該前輪走行伝動系には前輪(5)(5)への駆動回転を後輪(6)(6)に対して増速又は略同速に切替可能な前輪増速切換装置(30)を介して駆動される前輪デフ装置(32)が設けられ、前記前輪増速切換装置(30)は左右の前輪(5)(5)の操向角が設定角以上で走行速度が低速時にのみ前記の略同速から増速に切替えて旋回走行するように構成していることを特徴とする四輪駆動形農用トラクタの前輪駆動制御装置。」
3 審決の理由の要点
(1) 本願第1発明の要旨は、前項記載のとおりである。
(2) 引用例
特開昭53-47631号公報(本訴の甲第10号証。以下「引用例1」という。)には、四輪駆動形農用トラクタの前輪駆動制御装置が記載されている。そして、図を参酌すれば、引用例1には「ステアリングハンドルにより操向可能であるとともに前輪走行伝動系により駆動可能な左右の前輪と、高低複数段に走行変速を変速操作可能な走行変速装置と後輪デフ装置とを備えている後輪走行伝動系により駆動される左右の後輪とを有する四輪駆動形農用トラクタ」が開示されているとともに、前輪走行伝動系が、走行変速装置と前記後輪デフ装置との間の後輪走行伝動系より分岐して備えられ、また、前輪走行伝動系には、前輪への駆動回転を後輪に対して増速又は略同速に切替可能な前輪増速切換装置を介して駆動される前輪デフ装置が設けられた構造が開示されている。そして、その前輪増速切換装置は、前輪の操向角が設定角以上に操作された時は、略同速から増速に切り換えて旋回走行するように構成されている(以上の技術事項を「引用技術1」という。)。
実公昭54-31453号公報(本訴の甲第12号証。以下「引用例2」という。)には、<1>「従来周知のようにトラクタの場合、左右のブレーキを独立動作並びに同時動作可能にして、圃場の耕耘等の作業時と路上走行時とで使い分けるようにしている。即ち左右の各ブレーキ毎にブレーキペダルを設け、その各ブレーキペダルを並設支持すると共に、その両者間に係脱自在に連結杆を設けた構成とし、例えば圃場の耕耘作業時には、連結杆による両者ブレーキペダルの連結を解除しておき、各ブレーキペダルを独立して操作することにより片側後輪を停止させて、トラクタの急旋回を図り、また路上走行時には連結杆により両ブレーキペダルを連結して、何れか一方を踏込めば両ブレーキが同時に動作するようにしている。しかし、従来の連結装置は連結杆を人為的に操作する構成であるため、路上走行する場合でも連結杆の掛け忘れが多く、それがために高速走行時においては、ブレーキペダルを踏込めば片側ブレーキが動作し、トラクタが急旋回して乗員が振落されたり、トラクタが横転する等の事故がしばしばあった。」(1頁1欄31行ないし2欄13行)、<2>「本考案はトラクタにおけるブレーキペダルの自動連結装置に関し、左右ブレーキペダルを連結する連結杆を掛け忘れた場合でも、トラクタの車速が或る速度を越えれば、連結杆が自動的に駆動されて、左右ブレーキペダルを相互に連結し、片側ブレーキ装置の作動に伴なうトラクタ機体の横転事故等を防止するようにしたものである。」(同頁1欄24行ないし30行)との記載がある(以上の技術事項を「引用技術2」という。)。
(3) 対比
本願第1発明と引用技術1とを対比すると、両者は、ステアリングハンドルにより操向可能であるとともに前輪走行伝動系により駆動可能な左右の前輪と、高低複数段に走行変速を変速操作可能な走行変速装置と後輪デフ装置とを備えている後輪走行伝動系により駆動される左右の後輪と、を有する四輪駆動形農用トラクタにおいて、前記前輪走行伝動系は前記走行変速装置と前記後輪デフ装置との間の後輪走行伝動系より分岐して備えられ、該前輪走行伝動系には前輪への駆動回転を後輪に対して増速又は略同速に切換え可能な前輪増速切換装置を介して駆動される前輪デフ装置が設けられ、前記前輪増速切換装置は左右の前輪の操向角が設定角以上で前記の略同速から増速に切り換えて旋回走行するように構成している四輪駆動形農用トラクタの前輪駆動制御装置である点で一致し、一方、前輪増速切換装置について、本願第1発明においては、左右の前輪の操向角が設定角以上で走行速度が低速時にのみ略同速から増速に切り換えて旋回走行するように構成しているのに対して、引用技術1においては、単に左右の前輪の操向角が設定角以上で略同速から増速に切り換えて旋回走行するように構成されているに過ぎない点で相違している(以下「本件相違点」という。)。
(4) 判断
(イ) この種の前輪増速切換装置は、例えば、特開昭57-99421号公報(本訴の甲第11号証)における説明でも明らかなように、前車輪を増速させることによって、圃場や軟弱地での左右操向の性能の良い走行を行わせることができるとともに、路上などの硬質路面の走行に際して、前後車輪を等速にすることにより、前車輪の摩耗を生じさせない安定した走行を行わせるための機能を付加したものであり、その機能は、圃場内での作業時における小回り旋回時に必要な機能であって、道路走行時に必要とされている機能ではなく、いってみれば不要な機能であり、そして、そのように、特定状態時にのみ必要とされる機能は、不要時には不作動状態に保持することは必要に応じ適宜採用されるいわゆる設計的事項に過ぎない。
(ロ) 引用例2には、前記のように、機体旋回のための左右のブレーキの独立操作は、圃場内、すなわち低速走行時に必要で道路走行時には不要な機能であるから、そのような機能のものを設けるときには、走行速度が低速時にのみ操作可能に構成しておくことが好ましいことが開示されているところ、本願第1発明において、前輪の操向角が設定角以上略同速から増速に切り換えて旋回走行するように構成した前輪増速切換装置もまた、圃場内の低速走行時に必要で道路走行時には不要な機能であって、引用技術2と同様であるから、引用技術2から、引用技術1に本件相違点に係る構成を付加することは、当業者が容易に想到することができたものである。そして、その構成を採用することによって得られる効果も予測することができたものである。
(5) むすび
以上によれば、本願第1発明は、引用技術1及び2に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであるから、特許法29条2項の規定により特許することができない。
4 審決を取り消すべき事由
審決の理由の要点のうち(1)ないし(3)は認め、(4)及び(5)は争う。
審決は、本件相違点の技術的意義の認定を誤り、その結果、本願第1発明の進歩性や顕著な効果についての判断を誤ったものであって、違法であるから、取り消されるべきである。
(1) 取消事由1
(イ) 審決は、この種の前輪増速切換装置において、特定状態時にのみ必要とされる機能は、不要時には不作動状態に保持することは必要に応じ適宜採用されるいわゆる設計的事項に過ぎないと認定判断しているが、次のとおり、誤っている。
すなわち、本願第1発明は、ステアリングの操向角が設定角以上という第1の条件で自動的に前輪増速に切り換えるものにおいて、その前輪増速の切換えにつき、走行速度が低速時という第2の条件を付加し、これら第1及び第2の条件を具備するときに自動的に前輪増速に切り換えるようにしたものであり、増速切換えを第2の条件で牽制するという技術であって、その牽制条件として、「走行速度が低速」という構成を採用した点に技術的意義が認められるものである。このように、本願第1発明のように2つの条件を用いて切換え操作を行うという技術的思想及び第2条件として「走行速度が低速」という条件を設定することは、従来の技術になかった新規な構成であって、当業者が考えつかなかったものである。
したがって、本願第1発明は、前輪増速切換装置において、必要な時に作動し、不要な時に不作動状態にするという上位概念的なものではなく、本件相違点は、設計的事項に過ぎないとはいえないのであって、審決の前記認定判断は、誤っている。
(ロ) 審決は、本件相違点が設計的事項に過ぎないとの認定判断を裏付ける資料として特開昭57-99421号公報を掲げているが、同公報記載の技術は、圃場内での作業時における圃場端部での小回り旋回時に適用されるものではなく、スリップ等により蛇行しやすい圃場等の軟弱地での前輪微増速により推進力を大にする状態で前へ機体を引っ張り蛇行を極力防止したり、あるいは、蛇行をハンドル操作で修正する直進走行時に適用されるものであって、圃場の端部での小回り旋回に関する本願第1発明とは、技術が全く相違しているのであるから、特開昭57-99421号公報の引用しての審決の上記認定判断は、理由がない。
被告は、特開昭57-99421号公報記載の技術は、進歩性判断の根拠としていないと主張している。しかし、審決は、この従来技術をもって技術常識を認定し、この技術常識は、引用例2記載の事項からも知られ、本願第1発明は、この引用例2に開示されている技術同様であると認定しているのであるから、この従来技術は、進歩性判断の根拠としたものであることは明らかであり、被告の主張は、説弁に過ぎない。
(2) 敢消事由2
審決は、引用例2には、機体旋回のための左右のブレーキの独立操作は、圃場内、すなわち低速走行時に必要で道路走行時には不要な機能であるから、そのような機能のものを設けるときには、走行速度が低速時にのみ操作可能に構成しておくことが好ましいことが開示されているところ、本願第1発明において、前輪の操向角が設定角以上略同速から増速に切り換えて旋回走行するように構成した前輪増速切換装置もまた、圃場内の低速走行時に必要で道路走行時には不要な機能であって、引用技術2と同様であるから、引用技術2から、引用技術1に本件相違点に係る構成を付加することは、当業者が容易に想到することかできたと認定判断しているが、この認定判断は、次のとおり誤っている。
(イ) 引用技術2は、高速走行時の連結杆の掛け忘れの問題を解消しようとする高速牽制に関するものであって、高速走行時に停止のためのブレーキ操作を行った時の問題に係わるものである。一方、本願第1発明は、適正速度でカーブにさしかかった時(高速走行の場合は減速して)の、ハンドル操作による操向旋回時の増速機能牽制に関するものであって、両者は、技術課題及び技術を全く異にするものである。
また、引用例2の左右ブレーキと本願第1発明の前輪増速駆動とでは、高速走行時の危険の度合い及び認識度が大きく相違している。すなわち、ブレーキ操作は、踏み込めば直ぐその危険度を感知できるので、高速走行の場合に危険回避をする必要があるとの課題は予測可能となるが、ハンドル操作は、ある角度以上操作しないと前輪増速しないので、高速走行時の場合にあっても危険回避をする必要があるとは思い到らないものであって、引用技術2と本願第1発明との技術は、同列に論じられるものではない。
更に、引用技術2は、1つの条件で自動作動するものであって、第1と第2の2つの条件で作動させるようにした本願第1発明とは大きく異なっている。
したがって、引用技術2と本願第1発明の技術課題及び技術を同じものとした審決の判断は、その前堤に誤りがある。
(ロ) 引用技術2は、審決が認定するような、走行速度が低速時にのみ操作可能に構成しておけば好ましいというものではなく、走行速度が高速になると、作動するように構成したものであり、また、走行速度が低速になってもその作動状態が維持される場合があるものである。
したがって、審決の引用技術2の認定は、誤っている。
(ハ) 従来、四輪駆動形農用トラクタの前輪増速は、1.05~1.1倍程度をいうのが技術常識であったところ、本願第1発明は、前輪増速が略2倍程度という大きなものであり、そのため、適正速度であっても、前輪が当然に急旋回を開始して、操縦安定性が損なわれるという不都合が生じるのである。本願第1発明は、このような場合において、上記不都合を解消しようとする操向旋回時の増速機能牽制の技術に係るものである。
一方、引用技術2は、路上を走行時の左右ブレーキペダルの連結杆を掛け忘れた場合、運転者がトラクタを停止させようとしてブレーキペダルを踏んだにもかかわらず、全く意識していない急旋回が生じるという高速時の危険を回避する高速牽制に係るものである。
したがって、増速機能牽制に係る本願第1発明と高速牽制に係る引用技術2とは、技術を異にするものである。
(3) 取消事由3
審決は、本願第1発明が、本件相違点に係る構成を採用することによって得られる効果も予測することができたと判断しているが、誤っている。
すなわち、本願第1発明は、ステアリングの操向角が設定角以上という第1の条件においても解決すべき課題があることに初めて気付いた点、この課題を解決するために、必要なときに作用し、不要なときに作用しないようにするための具体的な第2の条件を見い出した点において発明としての技術的意義が認められるものである。そして、このような課題は、従来全く考えられておらず、本願第1発明の課題には予測性がない。
したがって、本願第1発明の効果の予測性が認められるとした審決の判断は、誤っている。
第3 請求の原因に対する被告の認否及び主張
1 請求の原因1ないし3は認め、4は争う。審決の認定判断は、いずれも正当であって、取り消すべき理由はない。
2 被告の主張
(1) 取消事由1について
(イ) 本願第1発明の課題は、四輪駆動形農用トラクタにおけるステアリング装置に、前輪増速する小回り補助機能を付加すると、路上走行等の高速走行時においてまで前輪増速小回り旋回機能が働き、必要以上に急旋回となって、当該トラクタが横転する等の不測の事態を発生するおそれがあるため、高速走行時においては、ステアリング補助装置の機能を牽制し危険を回避するということにある。そして、本願第1発明は、上記課題を解決するために、左右の前輪操向角が設定角以上で走行速度が低速時にのみ略同速から増速に切り換えて旋回走行するように構成しているものである。
このように、前輪増速切換装置は、圃場の枕地での低速時の小回り旋回においては有用ではあるが、路上走行等の高速走行時においては、むしろ、トラクタの横転事故を誘発する危険性があるのであるから、上記小回り旋回補助装置は、圃場の枕地での小回り旋回時等の低速時に必要な装置であるが、路上走行等の高速走行時においては上記危険性のある不要な装置であり、このことは、当然に認識しうるところである。
したがって、この種の前輪増速切換装置において、特定状態時にのみ必要とされる機能が、不要時には不作動状態に保持することは必要に応じ適宜採用されるいわゆる設計的事項に過ぎないとした審決の認定判断に誤りはない。
(ロ) 特開昭57-99421号公報記載の技術が、圃場内での作業時における圃場端部での小回り旋回時に適用されるものではないことは認める。
審決は、前輪増速切換装置自体については引用例1に記載されている事項であることから、一致点として認定し、相違点の構成については、引用例2の記載事項を根拠に進歩性の判断を行っているのであり、審決における相違点の判断の誤りを、特開昭57-99421号公報の記載事項を根拠に主張する原告主張は、審決に基づかない主張であって失当である。
(2) 取消事由2について
(イ) 引用例2には、四輪駆動形農用トラクタに小回り補助機能を付加したとき、高速走行時には必要以上の小回り旋回が行われてしまうため、その小回り補助機構を採用するときには、更に高速牽制機能を付加することで、車両の横転事故等の不都合を回避する技術が開示されており、このような引用例2に開示されている高速牽制に関する技術は、走行速度が低速時にのみに略同速から増速に切り換えて旋回走行するように構成する技術にほかならないのであって、引用例2には、本願第1発明における原告主張の第2の条件が開示されているものということができる。
したがって、本願第1発明は、引用例2に開示されている小回り旋回補助機構における高速牽制の技術に基づいて容易に想到することができたものということができ、審決における相違点の判断に誤りはない。
(ロ) 原告は、本願第1発明と引用技術2とは技術課題及び技術を全く異にする旨主張する。
しかし、引用技術2は、左右ブレーキペダルの連結杆を掛け忘れた場合でも、トラクタの車速がある速度を超えれば、連結杆が自動的に駆動されて、左右ブレーキペダルを相互に連結し、片側ブレーキ装置の作動に伴うトラクタ機体の横転事故等を防止するようにしたものであるところ、左右ブレーキペダルを各独立して動作させることによって、片側の後輪のみを停止させてトラクタの急旋回を図る機能は、圃場等における低速走行時の回向時にのみ必要な機能であって、路上走行時のような高速走行時にはむしろ横転等の危険があり不要な機能であるということができ、そうすると、引用例2には、高速走行中に、急カーブに至ってステアリングを所定角以上操作すると急旋回を生じ、操縦安定性が損なわれるという課題が開示されており、本願第1発明と技術課題及び技術を異にするものではない。
(ハ) 原告は、増速機能牽制に係る本願第1発明と高速牽制に係る引用技術2とは技術を異にする旨主張するが、「低速」の観点に立ってみれば原告の主張する「増速機能牽制」になり、「高速」の観点に立ってみれば被告が主張する「高速牽制」になるのであって、両者に実質的な差違はない。
(ニ) 原告は、本願第1発明は、前輪増速が略2倍程度という大きなものである旨主張するが、特許請求の範囲にはその旨の記載はなく、特許請求の範囲の記載に基づかない主張である。
(3) 取消事由3について
本願第1発明の、移動のため路上走行等を高速走行速度で進行している場合において、急カーブに差しかかってステアリングハンドルを旋回操作したときに前輪が増速駆動されることを防止することができるという効果は、小回り旋回補助装置を付加したトラクタにおいて、引用例2に開示されている高速牽制技術を組み合せることによって当然に奏するものとして予測することができる。
第4 証拠
証拠関係は、本件記録中の書証目録に記載のとおりであるから、これを引用する。
理由
第1 請求の原因1ないし3は、当事者間に争いがない。
第2 甲第2号証(本願第1発明の特許出願の願書に添付された明細書及び図面)及び甲第3号証(平成8年7月24日付手続補正書)によれば、本願第1発明の概要は、次のとおりである。
1 産業上の利用分野
「本発明は、四輪駆動形農用トラクタの前輪駆動制御装置に関するものである。」(甲第2号証2頁3欄10行及び11行)
2 発明が解決しようとする課題
「従来の前輪駆動制御装置は、ステアリングハンドルが例えば40度以上の切り角で操作された場合に、自動的に前輪が後輪に対して増速切換えされるものであり、走行速度が低速であろうと高速であろうと、走行速度に関係なく増速への切換操作が行われていた。故に圃場内で耕耘や代掻き等の作業を行なっている場合には、必ず低速であるので、前輪が増速駆動されても問題はなく、逆に小回り旋回することにより作業性が向上するのである。
しかし路上走行中(高速走行中)に、急なカーブに至ってステアリングハンドルを所定角以上操作したとき、前輪が駆動に切換わると突然前輪が急旋回を開始して、操縦安定性が損なわれる不都合があった。
そこで本発明においては、圃場等で作業中で走行速度が低速時において真に旋回半径を小さくする必要がある場合を判断し、その時にのみ自動的に前輪が後輪に対して増速になるようにするとともに、路上等を移動する走行速度が高速時には前輪を駆動しないようにしたものである。」(同欄17行ないし35行)
3 構成
本願第1発明は、上記目的を達成するために、特許請求の範囲の請求項1の構成を採用したものである。(同欄37行ないし同頁4欄5行)
4 作用
「圃場において農作業を行う場合には、一般に低速走行であるので、圃場端での枕地旋回の際、ステアリングハンドル8により左右の前輪5、5が大きく操向操作されると、前輪増速切換装置30は前輪5、5を後輪6、6に対して増速駆動に切換えて前輪デフ装置32により前輪5、5を駆動し、圃場の枕地での小回り旋回を可能とする。
一方、移動等路上を高速で走行しているときには、急カーブ旋回時に左右の前輪5、5がステアリングハンドル8により大きく操向操作されても、前輪増速切換装置30は前輪を増速駆動状態に切換えずに安定良く操縦できる。」(同欄7行ないし17行)
5 発明の効果
「請求項1に係る本発明では、
<1>;農用トラクタが農作業時圃場端(枕地)において方向転換の為に回行する場合には、前輪5を略同速から増速に切換えて前輪5の周速を大とすることにより、旋回半径を小さくすることができ、前工程において耕耘後の条の隣接位置へ回行させる旋回操作を、ステアリングハンドル8の切り返し操作無しで行うことができる。
<2>;湿田において車輪がスリップするような場合にも、前輪5の周速を略同速から増速に切換えることにより、圃場端(枕地)での旋回半径を小さく確実に旋回走行することができる。
<3>;前輪走行伝動系25は走行変速装置16と後輪デフ装置17との間の後輪走行伝動系より分岐して備えてあるので、前・後輪5、6を同期駆動することができる。」(3頁6欄41行ないし4頁7欄3行)
「<4>;走行速度が低速時にのみ前輪増速切換30を略同速から増速に切替えて旋回するようにしているので、湿田において旋回走行する際には必ず低速となるから、小回り旋回時における前輪による泥土の跳ね上げを許容範囲に抑えることができる。
<5>;移動の為路上走行等を高速走行速度で進行している場合において、急カーブに差しかかってステアリングハンドル8を旋回走行したときに前輪5が増速駆動されることを防止することができる。」(甲第3号証2頁)
第3 審決を取り消すべき事由について判断する。
1 取消事由1について
(1) 前輪増速切換装置について、本願第1発明においては、左右の前輪の操向角が設定角以上で走行速度が低速時にのみ略同速から増速に切り換えて旋回走行するように構成しているのに対して、引用技術1においては、単に左右の前輪の操向角が設定角以上で略同速から増速に切り換えて旋回走行するように構成されているに過ぎない点で相違する(本件相違点)ことは、当事者間に争いがない。
(2) 審決は、この種の前輪増速切換装置は、圃場内での作業時における小回り旋回時に必要な機能であって、道路走行時に必要とされている機能ではなく、いってみれば不要な機能であり、そして、そのように、特定状態時にのみ必要とされる機能は、不要時には不作動状態に保持することは必要に応じ適宜採用されるいわゆる設計的事項に過ぎないと認定判断しているので、まず、この点について検討する。
(イ) 本願明細書の特許請求の範囲の請求項の1に、「前記前輪増速切換装置(30)は左右の前輪(5)(5)の操向角が設定角以上で走行速度が低速時にのみ前記の略同速から増速に切替えて旋回走行するように構成している」と記載されているところ、同記載によれば、本願第1発明は、その前輪増速切換装置において、左右の前輪の操向角が設定角以上となり、かつ、走行速度が低速時である場合にのみ、前輪略同速、すなわち、前輪と後輪が略同速の状態から、前輪増速、すなわち、前輪が後輪に対して増速の状態に切り換わり、その他の場合には、すべて前輪略同速のままの状態になっているというものであることが認められる。
(ロ) 上記認定の事実に前記第2の2ないし5認定の事実を併せ考えると、本願第1発明は、その前輪増速切換装置において、左右の前輪の操向角が設定角以上となり、かつ、走行速度が低速時である場合にのみ前輪略同速から前輪増速の状態に切り換わる構成を採用することにより、低速で作業を行う圃場においては、小回り旋回をしうることによって作業性を向上させ、一方、その他の場合にはすべて前輪同速のままの状態にすることで、移動等により路上を高速で走行しそいて急カーブで旋回した際に、左右の前輪の操向角が設定角以上となっても、前輪が増速の状態にはなっていないので、前輪が突然急旋回して操縦の安定性が失われるといった事態にはならず、操縦の安定性を維持できるという作用効果を奏するものであると認められる。
そうすると、本件第1発明は、上記構成を採用したことにより、上記のような作用効果を奏するというものであって、高速走行時に前輪増速切換装置が前輪同速のままの状態を保持することについて積極的な技術的意義を有するのであるから、審決のいうように、特定状態時にのみ必要とされ、不要時に不作動状態に保持される機能のものではなく、したがってまた、必要に応じ適宜採用される設計的事項に過ぎないものともいえない。
なお、審決は、本件相違点が設計的事項に過ぎないとの認定判断を裏付ける資料として特開昭57-99421号公報を掲げているが、その立証趣旨が必ずしも明らかでないうえ、同公報記載の技術が、本願第1発明のように圃場内での作業時におけち圃場端部での小回り旋回時に適用されるものではないことは、被告の認めるところである。そうすると、特開昭57-99421号公報の記載の技術は、本願第1発明とでは、そもそも技術的意義を異にするものであって、特開昭57-99421号公報の記載事項を根拠とする審決の認定は、適切なものとはいいがたい。
(3) 被告は、前輪増速切換装置は、圃場の枕地での低速時の小回り旋回においては有用ではあるが、路上走行等の高速走行時においては、むしろ、トラクタの横転事故を誘発する危険性があるのであるから、上記小回り旋回補助装置は、圃場の枕地での小回り旋回時等の低速時に必要な装置であるが、路上走行等の高速走行時においては上記危険性のある不要な装置であり、このことは、当然に認識しうるところであると主張し、これを理由に、この種の前輪増速切換装置において、特定状態時にのみ必要とされる機能が、不要時には不作動状態に保持することは必要に応じ適宜採用されるいわゆる設計的事項に過ぎないとした審決の認定判断に誤りはないとしている。
しかしながら、小回り旋回の機能を有する前輪増速切換装置は、それ全体として1つの装置であって、長所、短所を有しつつ有機的に結び付いているものであるから、上記装置のうち高速走行に関する機能の部分に、被告が指摘するような危険があるとしても、1個の装置の有する長所、短所の1つに過ぎないのであり、他の機能を考慮せず、短所の部分のみに着目して、1つの有機的に結合している装置のうち高速走行に関する機能の部分を取り出して「不要な装置」であるということはできないものである。したがって、被告の上記主張は、前提において、失当というほかない。しかも、上記小回り旋回の機能を有する前輪増速切換装置について、高速走行に危険性があるとしても、これを解決するに当たって、上記装置全体の機能を考慮しつつ、その危険性をどのような手段方法で取り除くかという技術課題が存在するのであって、この技術課題が解決されているとの証拠のない本件において、不要時には不作動状態に保持することが必要に応じ適宜採用される設計的事項といえないことは明らかである。
(4) 以上によれば、本件相違点が設計的事項に過ぎないとする審決の認定判断は誤っているものといわざるをえない。
2 取消事由2について
(1) 引用例2に、<1>「従来周知のようにトラクタの場合、左右のブレーキを独立動作並びに同時動作可能にして、圃場の耕耘等の作業時と路上走行時とで使い分けるようにしている。即ち左右の各ブレーキ毎にブレーキペダルを設け、その各ブレーキペダルを並設支持すると共に、その両者間に係脱自在に連結杆を設けた構成とし、例えば圃場の耕耘作業時には、連結杆による両ブレーキペダルの連結を解除しておき、各ブレーキペダルを独立して操作することにより片側後輪を停止させて、トラクタの急旋回を図り、また路上走行時には連結杵により両ブレーキペダルを連続して、何れか一方を踏込めば両ブレーキが同時に動作するようにしている。しかし、従来の連結装置は連結杆を人為的に操作する構成であるため、路上走行する場合でも連結杆の掛け忘れが多く、それがために高速走行時においては、ブレーキペダルを踏込めば片側ブレーキが動作し、トラクタが急旋回して乗員が振落されたり、トラクタが横転する等の事故がしばしばあった。」、<2>「本考案はトラクタにおけるブレーキペダルの自動連結装置に関し、左右ブレーキペダルを連結する連結杆を掛け忘れた場合でも、トラクタの車速が或る速度を越えれば、連結杆が自動的に駆動されて、左右ブレーキペダルを相互に連結し、片側ブレーキ装置の作動に伴なうトラクタ機体の横転事故等を防止するようにしたものである。」との記載があることは、当事者間に争いがない。
(2) 審決は、引用例2には、機体旋回のための左右のブレーキの独立操作は、圃場内、すなわち低速走行時に必要で道路走行時には不要な機能であるから、そのような機能のものを設けるときは、走行速度が低速時にのみ操作可能に構成しておくことが好ましいことが開示されているなどとし、引用技術2から、引用技術1に本件相違点に係る構成を付加することは、当業者が容易に想到することかできたものである旨認定判断しているので、この点について検討する。
(イ) 上記(1)の事実によれば、引用技術2は、高速走行時において、左右ブレーキペダルを連結する連結杆の掛け忘れを原因として発生するトラクタの横転事故等を防止することを目的とし、トラクタの車速がある速度を超えれば、連結杆が自動的に駆動されて、左右ブレーキペダルを相互に連結する手段を備え、これによって路上走行する場合でも人為的に連結杆を操作することなく高速走行時にブレーキ操作を行ったときに予期しない片側ブレーキ装置の作動に伴うトラクタ機体の横転事故等を未然に防止するようにしたものと認められる。
そうすると、引用技術2は、高速走行時においてトラクタ機体の横転事故等を未然に防止しようとしている点で、本願第1発明と共通しているが、前者は、高速走行時にブレーキ操作を行ったときに予期しない片側ブレーキ装置の作動に伴うトラクタ機体の横転事故等に対処するものであり、その解決のために、左右ブレーキペダルを相互に連結するという手段を採用しているものであるのに対して、後者においては、前記1(2)(ロ)認定のとおり、高速走行中にステアリングハンドルを所定角以上に操作したとき、前輪が増速することによって急旋回を開始して操縦安定性が損なわれることに対処するものであり、その解決のために、走行速度が高速である場合には前輪同速のままの状態を保持するという手段を採用しているのであって、解決すべき課題、構成及び作用効果のいずれからみても別異の技術であるというほかない。
したがって、引用技術2には、本願第1発明における、前輪増速切換装置について、左右の輪の操向角が設定角以上で走行速度が低速時にのみ略同速から増速に切り換えて旋回走行するように構成するという技術の開示はないことは明らかである。
(ロ) 被告は、引用例2には、高速走行中に、急カーブに至ってステアリングを所定角以上操作すると急旋回を生じ、操縦安定性が損なわれるという課題が開示されているとの理由で、本願第1発明と技術課題及び技術を異にするものではないと旨主張するが、上記認定のとおり、解決すべき課題が共通しているとはいえず、しかも、仮に技術課題が共通しているとしても、どのような構成によって当該技術課題を解決するかを考慮することなしに技術が共通であるとはいえないのであって、被告の上記主張は、採用することはできない。
(ハ) したがって、当業者が、引用技術1に引用技術2を加えることで、本願第1発明の構成に思い至ることが容易であるとはいえない。
(3) そうすると、審決は、本件相違点についての評価を誤り、また、引用技術2の技術内容の認定を誤り、引用技術1及び2に基づく本願第1発明の容易想到性の判断を誤った結果、本願第1発明の進歩性を否定したものであって、違法であるところ、上記違法は審決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、取消しを免れない。
第3 以上によれば、本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由があるから、審決を取り消すこととし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条を適用して、主文のとおり判決する。
(口頭弁論終結日 平成11年3月2日)
(裁判長裁判官 清永利亮 裁判官 山田知司 裁判官 宍戸充)